1. 父、中学受験という魔界を知る

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息子。8歳。小学校3年生。
まだ甘えた仕草が残っている。些細なことで泣いては親を上目遣いでちらちらと見る。
しかし「必然」や「責任」なんて言葉を使うようにもなってきていた。そんなお年頃。

いっぽうで私は不穏な気配を感じていました。それは「中学受験」そのものが発する気配です。
素知らぬ顔はしていたけれど、東京の「中受」はヤバいと、耳がどこかで勝手に聞きかじっていたし、「ガチ勢」とか「サピ」なんて言葉も海馬の奥底に重要語彙として知らぬ間にストックされていました。

田舎の公立小学校から高校まで進んだ自分と妻にとっては、関東の中学受験の世界は全くの未知の世界で、そういう親にありがちな意見ですが、「小学校から受験勉強なんて…..だって私が小学生の時はその辺を走り回って泥だらけになって遊んでいましたよ。馬鹿らしい….」と思っていました。
まあ正直なところ、今もそうは思ってはいます。

しかし、まず幼稚園友達のお母さんお父さんが「ワセアカ」とか「にちのうけん」とか言い始めたのです。
なんかこれらの言葉が無視できない勢いで私達に迫ってくるのです。更によくよく世間様に耳を傾けてみると、信用している同僚もおかしな言葉を口走っていました。「つくこま」とか「αクラス」なんて単語を。

しかし、黒魔術の呪文のように唱えられるこれらの語彙に、少しでも興味を持ってしまった時点で、もう私は取り込まれていたのだと思います。中学受験の魔界に。

少しずつ好奇心に囚われてきた私は、真夜中のスマホから魔界の情報を恐る恐る引き出し始めてしまいました。

この時点で私が得た情報は以下くらいのものだったと思います。

・目下中学受験ブーム真っ盛り。受験者数は増加の一途を辿っている。
・男子は開成(筑駒)、女子は桜蔭を頂点とした熾烈な闘争が行われている。
・とにかくSAPIXが最強。強すぎ。
・勉強量がとにかくやばい。子供のくせにずっと勉強してる。
・場合によっては親子の関係がマジで悪くなる。毎日ケンカ。

 

「やめよう」
それが私の、最初の感想でした。
こんな魔界にかわいい息子を引きずり込むわけにいかないだろう、常識的に考えて。
普通に公立中学行って、高校受験か大学受験から真面目に受験を考えればいいだろう。うん、それが真っ当ってもんだろう。

 

そんな意見を固めて、ある日の夕飯の後、私は妻ちゃんと話し合いを持ちました(第1次家庭会議)。
残念ながら妻ちゃんの意見は私のものとは異なり、
「可能性が広がるし、みんな始めるみたいだし、合わなければ公立中学に行けばいいし、とりあえずやってみたほうがいいと思うんだけど…」というもの。どうしたんだよおれの妻!飛んでる女で有名だったおれの妻よ!普通の母親みたいなこと言うじゃないか!

しかし、この時点で私は気づいていたのです。穏当な意見を述べている妻の伏し目の奥に宿る、受験戦争に対する熱い闘争心を。
妻は密かに滾っていたのです。

私達夫婦は二人とも、田舎の街から、つらくて長い受験勉強を堪え忍び、死にたいくらいに憧れた花の都大東京の大学を受験し、めでたく合格を勝ち取って上京してきたのです。初めて東京に降り立った日、独りで渋谷の雑踏に身を任せた時の感動といったら!きっとあの体験が忘れられないのです。悲しいかな受験に対するロマンをまだ持ち続けているのです。もしかしたらこれは郷愁に近い感情なのかもしれません。

「あなたもそうでしょう。あの熱狂をもう一度体験したいのでしょう。ねえ、あなたもそうに決まってるわ」

妻の目はそう言っていました。もちろん慎み深いうちの妻ちゃんはそんなことは口には出しゃしませんでしたが、10年も連れ添った妻です。何も言わなくても分かりますよ。
ああ、やはり我々も親の思い入れを子供に押し付けることになるのか。

正直申し上げますと、この時点で我々夫婦は、息子に中学受験を奨める方向になるのだろうと確信いたしました。

しかし。冷静になれ、と自分に言い聞かせました。子供は別人格なのだ。

一呼吸置いて、この時点ではまだ私は中学受験に対して反対の立場を取ることにしました。
その理由は以下のようなものです。

・そもそも、本当に中学受験することにより人生の選択肢が広がるのか?
・選択肢を提示し、息子自身が選択できる形を整えた方がいいのでは。
・ていうか小学校時代の遊びの時間も大事だし、何と言っても楽しいよね。
・息子が受験をしたくない、止めたい、という結論になった際、撤退したことに本人に引け目を感じさせないようにしたい。

つまり、この時点では、ちょっとドアを開けて部屋の中を見てみようか、というくらいの気持ちだったのです。

 

しかし、後で気づくことになるんですけどね。一度ドアを開けた以上、「撤退」は非常に難しい判断であるということに。

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